年度別受賞作品
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聴こえないということ

第10回 2006年度 受賞作品
入賞作品
作者名:山崎裕行
所属企業:㈱板垣 前橋本店

記事(紹介文)


 朝、開店の準備をしていると、1人の女性のお客様が来店されました。「もう、お店はやっていますか?」。お客様を見た時、通常来店されるお客様とは雰囲気が違う、そんな印象を受けました。年齢は70から80才くらい、やっとのことでこの店にたどり着いたかの様に疲れきった顔で、目は幾分潤んでいる様にも見えました。私の口から出た言葉は「いらっしゃいませ」ではなく、「どうされました」でした。するとその女性は小さな声で話し始めました。「何年か前にこちらの店で補聴器を買いました。私ではなく主人の物です。最初は主人も何不自由なく使っておりました。聴こえる事があたり前にもなっておりました。しかしこの1週間ほど前にその補聴器をなくしてしまい、その時から主人の様子が変わってしまいました」。
 私は女性に座っていただき、お茶を飲んで少し落ち着いてから詳しく話を聞きました。補聴器をなくしてからのご主人は、まるで死んでしまったかのように動かなくなる時があったり、その女性(奥様)に向かって「お前は誰だ」と大声を出したり、急に夜中に外へ行ってしまったりと、日増しに行動と言動がおかしくなっているというのです。原因は音が聞こえないからではないか、とも言っていました。私は補聴器でそのような状態が治るかどうかは分からないにしても、一緒にご主人の所へ行きましょう。そして解決策を考えましょう。そう言って、車で向かいました。車中、何度もお礼を言われましたが、正直、自分は何をすれば良いのかも想像がつきませんでした。しかし、実際にご主人に会い、補聴器をご主人の耳に入れた時、奥様が言っていた「聴こえないのが原因」という言葉を信じました。耳に入れるまでピクリとも動いていなかった人が、急に生気が出て、大声で話し始め、みるみる年相応の男性の顔になっていきました。
 その後、その場で商品を購入していただき、私から「有難うございました」と当然言いますが、その数倍の回数の「有難うございました」をいただきました。そして私は幸せそうな2人に見送られ、店へと戻りました。
 それから約1ヶ月後、私はその夫婦にまた「有難うございました」と言う時が来ました。何があった訳でもなく、私が店の車で近隣を走っていると、スーパーの袋を持って仲良く買い物をしている2人を見ました。歩く事もままならなかったご主人が、全く普通に歩き、その横を奥様が笑顔で歩いていました。
 聴こえる事は素晴らしい力を出す。しっかり心に焼きつきました。なぜかそのとき、たくさんの「有難うございました」を心の中で連呼していました。今後はより良い接客が出来ると信じております。

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