年度別受賞作品
退職や転居等により氏名公表許諾未確認の方のお名前は割愛させていただきました。
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数字の贈り物

第10回 2006年度 受賞作品
入賞作品
作者名:(氏名割愛)
所属企業:鞄販売店勤務

記事(紹介文)


 私の特技は鍵開けだ。何千通りも組み合わせのある数字錠でもほんの5分あれば開けられる鞄屋の店員だ。
私の働く鞄店では旅行用のスーツケースも取扱う。スーツケースの鍵には数字錠が使用されていることが多い。0から9までの数字をクルクルと回して自分の好きな数字に決める。数字の桁は3行のものがスーツケースの鍵としては一般的なようだ。
 この鍵についての一番多い問い合わせが、「合わせた数字を忘れてしまった」というもの。お客様がスーツケースを使用するのはだいたいが年に1、2度だから無理もない。大事な大事な鍵だから、と頭をひねって考えた3桁の数字だからこそ次の旅行時期には忘れてしまうものだ。そこで鞄屋の店員、私の出番と相成るわけだ。
 鍵の開け方は「鍵」という性質上、残念ながらここでは企業秘密としておこう。そして話は、店にかかってきた1本の電話から始まった。
「スーツケースの鍵の番号がわからなくて開かない。どうにかならないかしら」という何となく聞き覚えのある上品な口調の婦人からの電話番号だった。もちろん、どうにかなる。私がスーツケース現物を店頭にお持ち頂ければ恐らく開けられる、という旨を伝えると婦人は「それでは今から参ります」と通話を終えた。1時間ほどして、大きな旧型のスーツケースを転がし婦人が来店された。小柄で可愛らしい印象だがお年は70代に差しかかっているだろう。婦人の顔を見て、先の電話で声に聞き覚えがあった理由がわかった。2日ほど前、スーツケース用のベルトをご購入頂いたお客様だったからだ。その時もたまたま私が接客して「初めて1人で旅行に行くの」とはずんだ声で言い、「年なのにこんな派手な色恥ずかしいかしら」と呟きつつ鮮やかなピンクのベルトを選ばれたお客様だ。その年代で一人旅、というのが印象的でよく覚えていた。
 「先日はありがとうございます。先ほどお電話いただいた方でいらっしゃいますか」。婦人は恥ずかしそうに、「ええ、そうなの、数字がわからなくて」と私にスーツケースを差し出した。型としては10年以上前の物だろう。重たくて角張っている大きな黒いスーツケース。とても丈夫そうな造りで型こそ古いが表面には全く傷みはない。あの鮮やかなピンクのベルトと質実剛健なスーツケースでは、まるで美女と野獣だな、などと考えつつケースを婦人の手から受け取る。
 「誕生日も電話番号も住所の番地も郵便番号も、思い付くものは全部試してみたのだけれど全部ダメだったの」と、婦人は悲しそうな顔で言った。「わかりました。数字を合わせてみますので少々お時間頂けますか」。婦人には椅子にかけて待って頂くことにして、さっそく数字を合わせてみる。私は婦人の座った椅子のすぐ目の前で背を向ける形で作業を始めた。背中越しに婦人が話し掛けていくる。
 「そのケース、古いでしょ。7年ぶりに出したのよ」。「そうなんですか。それなら合わせた数字も忘れてしまいますよね」。一瞬、間を置いて婦人が答えた。「うううん、そうじゃないの。私はもともと知らないのよ」。私が答えにつまっていると婦人はこう続けた。「そのケースはおとうさんのなの。2人で旅行に行ってたんだけど、おとうさんが『お前は数字に弱いんだからいじるな』て鍵には触らせなかったの。失礼しちゃうわよねえ」と婦人は続ける。
 「おとうさん」と婦人が呼ぶ人は旦那様のことなのだろう。スーツケースのしまわれた7年前に旦那様は亡くなったのではないだろうか。婦人は、おとうさんがいなくなってから初めて旅行に行くこと、ずっと二人旅だったから一人旅は不安だと、でもそれ以上に一人旅は楽しみだなどをとりとめなく話した。
 ピン、というかすかな音と共に数字錠の開く手応えがあった。時間にして5分かかったか、かからないか。「お客様、開きましたよ」私は振り向いて婦人に笑顔で告げた。「まあ!本当!ありがとう。数字はなんだったのかしら?」。私は婦人に鍵になっていた3桁の数字を教えた。婦人は私の言った数字を聞くと一瞬怪訝な顔をしたが、すぐにパアアっと頬を染めた。「やだわ・・・おとうさんったら」。はにかんだような少女の笑顔で婦人は囁いた。
 「その数字、私達が結婚した日だわ」。7年ぶりに開けられたスーツケースの中にはサイズ違いのブルーとピンクのスリッパが入れたままになっていた。婦人は何度も何度も礼を言い、店を後にした。店を出る婦人の後ろ姿にぴったり寄り添う大きなスーツケースが一瞬大きな背広の後ろ姿に見えた気がした。質実剛健の無骨なスーツケースは案外ロマンチストだったらしい。

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