はじめの一冊

第11回 2007年度 受賞作品
入賞作品
作者名:池田拓郎
所属企業:㈱有隣堂 本店

記事(紹介文)


 私は昨年春に書店に入社した新入社員です。入社してすぐに、新人研修として本社近くのマンションヘ書籍の訪問販売に行きました(通常は訪問販売はいたしません)。課題の本を携え、必ず達成するようにと釘をさされた売上目標を目指して1軒1軒ベルを押して回りました。しかし普段はありえない書店の突然の訪問に住民の方々は驚き、私の唐突なセールストークには困惑するばかりで、本は1冊も売れませんでした。100軒ほどのお宅を訪問し、研修期間の2日が終ろうという時になっても、売れる気配さえ見えませんでした。
 これでは売上目標など達成できるわけもないと絶望的な気分に包まれ、それでも何とか、と必死になって訪問を続けていたところ、ちょうどマンション内で夕刊を配っていた新聞配達の女性から「何やってるの?」と声を掛けられました。何だかわからないが、若い男が一生懸命になっているから気になったとのことでした。私が事情を説明すると、まだ商品の説明もろくにしていないのに、「それじゃあその本、私が1冊買ってあげるよ」とおっしゃられました。明らかに私の状態に同情してのことだったので、初め私はうろたえつつお断りしてしまいましたが、先輩社員の方の助言もあって、結局1冊お買い上げいただくことになりました。
 その時私は、その女性の好意のありがたさと申し訳なさ、やっと1冊売れたことの安堵感がないまぜになって、思わずマンション内で声を殺して泣いてしまいました。1冊売れて涙するようではふがいないことこの上ないのですが、これが私の書店員として販売したはじめての1冊であり、あの女性がはじめてのお客様でした。
 あれからもうすぐ1年がたちます。私は今、理工学書の売り場で働いています。専門的な商品なので、日々多くの売上げがあるわけではありませんが、それでも日々の業務の中で1冊1冊の売上げはデータとして集計し、管理しています。そういった中で、1冊が売れることのありがたみが徐々に薄れてきているように感じます。また訪問販売と違い、店舗にお客様がご自分で来てくださるという非常にありがたいことも、「そういう商売なんだ」とだんだん当たり前に感じてきている自分がいます。そのことに危機感を覚えた私はこのごろ意識的にあの「はじめの1冊」を思い出すようにしています。本という商品を売ることがどれほど困難で、売れるということがどれほどうれしい事かを思い出させてくれる「はじめの1冊」の記憶に感謝しつつ、今後もこの記憶を失いたくないと強く思う今日この頃です。

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