ボードで会話が広がって

第11回 2007年度 受賞作品
入賞作品
作者名:小神子眞澄
所属企業:一般

記事(紹介文)


 大型スーパーの中の、その専門店の前を通った時、足が止まりました。
 見るからにセンスのよい、と言うより私の好みのあった洋服が店内に飾られているのです。私は、奥のほうにとても気に入った服を見つけ、そろそろと足を踏み入れました。他にも客がいたし、その客の相手をしていたマダムは近づかないと思ったからです。
 私は耳が不自由です。話かけられても受け応えが出来ないのです。お目当てのその洋服の前で、見上げていますと、ふいに人の気配を感じました。ハッとして振り向くと、マダムが何かしゃべっています。私の横に並ぶとその服をつまんだり、裏返したりして説明し始めました。
 私はどぎまぎしながらも、分かった振りをして相槌を打ちます。でも、話の内容が分からないのに、分かった振りは疲れます。落ち着いて服を見るどころではありません。とうとう耐えられなくなり踵を返しました。店外に出ると、やっぱり店に入るんじゃなかった、と後悔ばかりが先に立ちます。
 しかし時が経つにつれ、あの服をもう一度見てみたいと思うようになりました。難題はマダムとの会話です。マダムと話しを交わすことなく、あの服を買うことは出来ないものだろうか?
 数日後、運のいいことに何とバーゲンセールが開催されたのです。店内は客たちでごった返しています。これならまさか声をかけられないだろう。私は人混みに紛れて品定めをしていました。なのにまたマダムが目ざとく見つけ近寄ってくるのです。あれこれ話しかけます。「わたし、耳が不自由なんです!」思わず叫んでいました。逃げるようにその場を離れます。もうあの店には行けないだろう。胸の中の大きな塊がのしかかってくるようです。
 そして、1ヶ月経ったでしょうか。買い物のついでにまたその店の前を通りかかりました。私はうつむいてそそくさと通り過ぎます。ところがぽんと肩をたたかれたのです。振り向くと、あのマダムがにこにこと立っていました。手にはボードを持って…。
 ボードには「いらっしゃいませ。どうぞご自由に見て下さい」と書かれています。私は目を疑いました。胸の底から温かいものが込み上げてきます。目の前がぼーとかすみました。
 それからです。ボードを挟んでマダムと会話を交わすようになったのは。気を遣わない会話がこんなに楽しいものとは、この時初めて知りました。笑い声も自然と出てくるのです。他のお客も何事か、とボードを覗き込んだりします。このときが、私の至福の時間になりました。

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