ムーン・リバー

第18回 2014年度 受賞作品
優秀賞作品
作者名:  松本剛史
所属企業: ㈱山野楽器

記事(紹介文)


 この楽器店でアルバイトを始めたばかりの頃、ある老夫婦と出会いました。
 70代前半くらい、銀縁の厚い眼鏡をかけた、少し腰の曲がったおばあさんが優しそうな笑みを浮かべながら、レジにいる私に声をかけてこられました。
 「バイエルって、あるかしら。ピアノの本なのですが」
 私がピアノの教則本の棚までご案内すると、
 「先月からおばあさんがピアノを習い始めてね。先生が言うには、上達が早いらしいんだよ」
と、薄くなった白髪をこざっぱりとまとめた、背筋をピンとはったおじいさんが嬉しそうにおっしゃいました。
 何種類もある教則本の中から、おばあさんのメモを頼りにバイエルを探し出すと、
 「お兄さん、ありがとうね」と、おばあさんは笑顔で僕におっしゃいました。
 「いえいえ、これが仕事ですから」
 その優しい笑顔に応えるように、笑顔でレジを打ちながら答えました。
 それから一年ほど経ったころ、老夫婦がまた来店されました。今度は映画「ティファニーで朝食を」の主題歌『ムーン・リバー』のピアノ譜を探しているとのことです。残念ながらお店に在庫が無く、取り寄せなら可能で、難易度によってアレンジされた物が何冊か出版されていることをお伝えすると、「簡単なのがいいんじゃないかい」とおじいさんは心配そうにおっしゃいました。おばあさんは少し困った顔をされていましたが、何冊か取り寄せて実際に中を比べてみることをご提案すると、おばあさんはあの優しい笑顔でお礼をおっしゃいました。
 後日、取り寄せたいくつかの楽譜の中から、おばあさんは少し難易度の低いものを選ばれました。「この曲が弾きたくてピアノを始めたのよ」とおばあさんは話してくださいました。
 それからまたしばらくたった頃、おじいさんが来店されました。
 「実は、おばあさんの具合が悪くなって最近ピアノをあまり弾けなくなってしまってね。私は昔ブルース・ハープを演奏していたことがあるから、『ムーン・リバー』を来月のおばさんの誕生日に演奏してあげようと思うんだ。お兄さん、また楽譜を探してくれるかい」おじいさんは、「ティファニーで朝食を」は昔二人で見た思い出の映画なのだと話してくださいました。
 おばあさんの誕生日が過ぎたころ、おじいさんがご来店され、演奏はとても上手くいき、おばあさんは涙を流して喜んでくれたことをお話しくださいました。
 この老夫婦に出会い、自分は商品を売っているだけではないのかもしれないと思うようになりました。お買い上げいただいた商品が、自分の考える以上に意味のあるものになっているからです。お客様と店員という関係ではあるけれど、私がお礼を言われることもあります。だから私は、最高の「ありがとうございます」という言葉をお客様に伝えたいと思っています。

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