記憶の一部

第18回 2014年度 受賞作品
最優秀作品
作者名:  近藤智恵美
所属企業: ㈱タカノフルーツパーラー

記事(紹介文)

 「お手洗いはどこですか?」
 百貨店内の喫茶店に勤務していると、よくこのような質問をされます。その日も一組の70代くらいと40代くらいの女性のお客様から尋ねられました。
 お手洗いの場所をご案内すると、
 「お母さん、一人で行ける?」
と会話されていたので、
 「よろしければご案内いたしましょうか」とお声かけをしました。お客様は足が悪いとのことでしたので、手を繋ぎながらご一緒することにしました。お手洗いは婦人服売り場を通り抜けた所にあり、少し時間がかかります。その間、今日は遠方から車でいらしたことなど、お話をうかがいながらゆっくり歩いていきました。
 するとお客様が突然足を止めて、
 「素敵な色ね」
とおっしゃいました。それは店頭に飾られていた洋服のことでした。お客様がお召しになっているお洋服と似た色の薄紫のカーディガンです。
 「紫色がお好きなのですか?」
とうかがうと、似合うかはわからないけれど好きな色だとおっしゃいました。
 柔らかい表情をされているお客様の雰囲気に、その薄紫色がとても似合うと思ったので、
 「お似合いだと思いますよ。お客様の雰囲気にピッタリです」
 「周りの人はもう、私みたいな年寄りの洋服なんて気にしないものなのよ」
と少し寂しそうにおっしゃいました。
 私はもう一度「お似合いだと思います」とお伝えし、お席に戻るまでまた同じような会話をしながらゆっくり歩いていきました。先ほどお客様のお住まいや交通手段についてうかがったのですが、今度は「近場なので電車で来たの」とおっしゃるのです。おかしいなと思って聞き直すと、やはり電車で来たとのこと。私の聞き間違いだったのだろうか…。そんなことを考えながらお席までご案内しました。
 ご飲食が済み、お会計を担当した際に再度お話をしました。商品についてうかがうと、「あんぱんは美味しいわね」とおっしゃいます。あんぱんは扱っていないので不思議に思っていると、「お母さん、あんみつでしょ?」お連れ様によると、最近物忘れと記憶違いがあるらしく、このようなことは頻繁に起こるのだそうです。今日は車でいらしたとのことなので、先ほど「電車で」とおっしゃったのも記憶違い…。サンドウィッチとクリームあんみつを召し上がったので、あんぱんも勘違い…。ということは先ほど私と会話したことも忘れてしまわれるのだろうかと、少し寂しい気持ちになりました。
 お見送りをすると、お連れ様がお手洗いまでの案内に対してお礼の言葉をくださいました。「またお待ちしております。お気を付けて」と出入り口まで行くと、お客様が振り返り、
 「あのカーディガン欲しくなったわ。あなたが似合うって言ってくれたから買おうかしら」
と笑顔でおっしゃいました。
 その瞬間、私は胸が熱くなりました。今さっき食べたものすら忘れてしまったのに、私との会話は覚えていてくれた…。それは記憶の中でたまたま蘇った情報なのかもしれません。それでもお客様の記憶に残ったという事実が素直に嬉しかったのです。
 半年前に亡くなった祖母も同じように足が悪く、上京してからあまり一緒に時間を過ごせなかったことを私はずっと後悔していました。その分、これから出会うさまざまな人たちとの時間を大切にしていきたいと思いました。

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