私を映すもう一枚の鏡

第03回 1999年度 受賞作品
最優秀作品
作者名:(氏名割愛)
所属企業:靴販売店勤務

記事(紹介文)


 大学2年の夏休みだった。実家でのんびりテレビを見ていると唐突に父から「飲みに行くか」と誘われた。連れられて行った先はお寿司屋さんだった。お店に入ると威勢のいい掛け声が一斉に聞こえた。ピンと張りつめたそのお店の空気に私はとても緊張し、また生まれて一度も経験したことのない味やサービスに驚きの連続だった。
ふと目の前に立っている板前さんと目が合うと、私に向かって笑顔を見せたのだ。その何とも言えない笑顔に私はある種の安心感を覚えた。緊張の解けた私は、カウンターを挟んで向かい合うお客と板前さんの姿を見ていた。不思議なくらい、皆笑顔だった。気がつくと、当時どんなにお酒を飲んでも酔わなかった私が酔っていた。酒でもお寿司の味でもなく、多分、その何とも言えない笑顔に酔っていたのだろう。
大阪へ異動となり7月のサマーバーゲンも終わり、店内は比較的ガランとしていた。若い女性のお客様が、ある靴を見ていたのだった。腕を組んだまま真剣な表情で1~2分立っていたので声を掛けてみた。「よかったら一度履いてみませんか」。するとその女性は「何でこんなに高いの」とつらそうに言った。
その靴は28000円と確かに高額の商品だったが、また人気の商品でもあった。10分、20分、30分と接客していると話もなくなってきた。ふと鏡を見ると私もお客様もつらそうな表情をしていた。その時、私の脳裏にあの時のお寿司屋さんが浮かんだのだった。あの何とも言えない板前さんの笑顔に酔った自分を思い出したのだ。もう一度鏡を見ると、そこに映っている私とお客様が、カウンターを挟んで向かい合う板前さんとお客ように見えた。そして、鏡に映る2人の間にさらにもう1枚の鏡があったのだ。つまり、お客様のお顔が私の顔を映し出す鏡に見えたのだ。
 結局1時間くらい接客して、お客様は「すみません。もう少し考えます」と言って帰ってしまった。お客様の帰り際に私は、「ゆっくり考えて下さい。またのお越しをお待ちしております」と自然に笑顔で言っていた。すると、その私の顔を見て、お客様が初めて笑ってくれたのだった。そのことがあってから、私自身、仕事でつらいことがあっても、お客様には常に最高の笑顔で接していこうと努力している。

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