本に囲まれる幸福

第03回 1999年度 受賞作品
入賞作品
作者名:(氏名割愛)
所属企業:書籍販売店勤務

記事(紹介文)

 
 「サイン本ありますか?」 そのお客様とのお付き合いはこの唐突な質問から始った。私が本店1階で働いていたとき、白髪の高齢の女性が娘さんと一緒に来店され、店頭で私に声をかけられたのだ。最初はその問いに面食らったものの、よくよく聞いてみると、サイン本を集めるのがご趣味とのこと。東京に出てきたときに、書店を回ってサイン本を購入するのが何よりの楽しみだったのだが、最近は足を患い外出もままならず、久しぶりの上京とのことであった。
 あいにくその時は手元にサイン本が無くご期待に添えなかったのだが、そのあとサイン会の予定もいくつか入っていたし、時々出版社さんからサイン本を置いて欲しいと頼まれたりすることもあったので、お時間を頂ければ確保できる旨を説明した。書籍がある程度たまった時点でリストを送付し、欲しい物を選んで代金を振り込んでもらい、後日商品を発送するということで話は決まった。
 「いい人に会えて良かったね」。その方と娘さんが話している。思いもかけない言葉に思わず赤面してしまった。正直言って自分ではあまり接客が上手ではないと思っていたし、今回も事務的に対応したつもりだったからだ。だが、目の前で喜んでいるお客様の姿を見て、私は接客の大切さを今さらながら痛感した。目からウロコとはこういうことかと思った。
 最初のリストを送付した後、本当にリストを心待ちにして下さっていた様子が伺えるお手紙をいただき、またまた感激した。しかも書籍発送後、お礼にと福島名物「鱒寿し」が送られてきたのである。重ね重ねの心づかいに恐縮しつつも、もちろんおいしくいただいた。
 その後、何回かリストを送付したり、はがきのやり取りをするうちに、だんだんお客様の好みもわかるようになっていった。お客様は「本に囲まれているときがいちばん幸せ」とおっしゃるくらいで、純文学、それもいかにも玄人好みのものを選ばれるので、こちらも気が抜けず、毎回厳選したリストを送るように心がけた。その後、私は人事異動で店を変わったが、今でも後輩の社員が後を引き継いでそのお客様とのやり取りがあるようだ。
 時々、ふとそのお客様のことを思い出すことがある。それ程印象深いできごとだったのだ。そのお客様はきっと私どもの店を好きになっていただけただろうと思う。そして私は接客が好きになり、書店業を選んで良かったと思っている。

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