心に残る母娘との出会い

第04回 2000年度 受賞作品
優秀賞作品
作者名:(氏名割愛)
所属企業:呉服販売店勤務

記事(紹介文)

 
 浴衣の季節を迎え陳列替えをしていた時、1組の母と娘が通り過ぎようとしていた。作業をしながら、「新作のいい柄が入っておりますよ」と軽く声をかけると、母娘は何げなく振り返り、私は2人と目が合ってしまった。振り向いてくれた2人に私は精一杯の笑顔で愛想を振りまき、飾ったばかりの浴衣地の前へ促していた。
 母親は反物を手に取り、娘の肩へ上手に掛けて何やら楽しげにしていた。その後、何度も柄を取り替えながらやっと満足げに母親を振り、「これがいい」と藍染めの絞りをお決めいただいた。
 お仕立てを承り寸法を測ると、何度測っても裄(ゆき)に一寸も違いが出るので、「何かスポーツでもなさっていらっしゃるのですか」とお聞きすると、「運動は苦手で何もしておりません」。と言われた。お客様の身体の欠点を指摘するのはどうかなとためらわれたが、勇気を出して、「左の肩のあたりから背にかけて少しはれて高くなっているようなので、そのせいではないでしょうか」と問いますと、「母がたまに風邪を引くぐらいで、他に病気になったこともなく、現在もいたって健康です」と言われます。「変ですねぇ」と笑い飛ばして済ませ、結局、裄は中間を取り、採寸を終えた。母親は、最後まで左右の裄の長さが気になっていた様子だった。
 そのできごとはすっかり忘れて日々忙しく過ごしていたが、約1年後、あの母と娘がひょっこりと来店された。いきなり、「菅井さんは命の恩人です」。と言われ、すぐには思い出せなかった。当時は買い上げのお礼の手紙を出し、たまに催事の案内を送ったが、音さたがなく忘れていた。浴衣の話が出て思い出し、手を取り合って懐かしんだ。1年前のことを聞かされて、初めてあの時の裄の長さの違いの意味を知らされた。浴衣をお買い上げになり家に帰られてからも2人は、採寸時の私の「ちょっと変ですね」がずっと気になり、腕の長さがどこでどう違うのか病院に行って見てもらうと、検査の結果、がんと診断されたとのことだった。早期発見で本当に命拾いをしたと、再度深々と2人が頭を下げられた。
 昨年のあの時の接客を思い出すと、私はごく自然に対応していたように思う。ただ、初対面のお客様でもあり、言っていいことと悪いことがあるので、その時の雰囲気をよく考えながら、どうしようかなと思いながら、やはりさりげなくお伝えした。お伝えした一言がお客様にとっては重要なこととなり、結果的には良かったのだった。
 私の知らないところで病と闘っていた母と娘。今はお嬢様もすっかり元気になられ、丈夫になられて結婚もし、2児の母になってお幸せに暮らしているようだ。今思えば販売は、店頭での一瞬の出会いが人の心をとらえ、接客を通じていろいろなプロセスがあり、心の底に何かを残してくれる。

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