見えない一線

第01回 1997年度 受賞作品
優秀賞作品
作者名:(氏名割愛)
所属企業:紳士服販売店勤務

記事(紹介文)

 
 白い杖をついた22~3歳の男性が店に入ってきた。「いらっしゃいませ!」元気のいい女店員の掛け声。しかし、そのあと彼女は後ずさりして私に目配せした。どうやら、彼女はそのお客様にどう対応してよいのかわからず、また粗相を恐れているらしく、一歩踏み込めない様子だ。
 そう言えば、体に障害を持ったお客様が付添い者なしで入って来られるのはとてもめずらしいことで、私も緊張してしまった。
「緑色のジャンパーを探しているのですが」。10月の終わりなのに、彼は薄手のダンガリーシャツ1枚の姿でいかにも寒そうだった。私は、一色物から配色使い、柄物などグリーンがかったブルゾンを、彼の体型のMサイズばかり八点ほどを集めて彼に着せた。
「か…」いけない! 普段の癖で「鏡の前へどうぞ」と言ってしまうところだった。結局、お客様を入口近くの少し広いスペースに誘導して、そこで接客することにした。
 「どんな緑色ですか?」と興味津々の声。「はて、このお客様は生まれたときから目が不自由だったのかしら? それとも…」。他に色を表す言葉を挙げてみたとて、もしそのもの自体の色を知らなかったらお客様はとても傷つくはず。
 緊張気味で、ましてスタッフが後ろから様子をうかがっていて、私はなかなか機転を利かすことができなかった。
 考え抜いた末、「何にお例えしてみましょうか? 動物とか食べ物とか」としか言えなかった。「……」〈しまった! やはり他の色をご存じない〉。私はうろたえ動揺した。「とても濃い色ですね。夜だと紺か黒に見えるでしょう」。矛盾しているが、これが精一杯だった。そして「じゃ、もっと明るいものを」と、なんとかきっかけを作り、自分の担当以外のメーカーのものも数点集めて、ずい分と時間をかけて購入していただいた。
 お客様が帰られたあと、スタッフたちから拍手を送られたが、私はうれしくなかった。あのお客様はなぜ緑色にこだわっていたのか、本当に理解されて買っていただいたのか、手ごたえのない販売に私は不満足であった。
 数日後、私は寝坊してしまい、いつも乗る電車の1本後のに乗ると、あのお客様が緑色のブルゾンを着て乗っていた。それから何日も見かけるようになり、私は意を決して問うことにした。
「おはようございます。このブルゾンを買っていただいた店の者です」。彼は私が話し終わらないうちに、声を思い出したらしく、深くお辞儀をしてくれた。その動作から、感謝と満足をしていただいていることが十分に感じ取れた。それは、お客様の心理を探ろうとしたお節介で邪悪な心をスーッと溶かしてくれたうえ、ピッと領域線のような境を引いて叱っていただいたように、爽やかでスッキリして、とてもうれしかった。

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