赤い椅子

第06回 2002年度 受賞作品
優秀賞作品
作者名:(氏名割愛)
所属企業:靴販売店勤務

記事(紹介文)

 
 赤い布がかかった椅子を店頭に出しているお茶屋さんがある。千葉に異動してからずっと気になっていた。日本茶の専門店で、江戸時代から何代も続く老舗だそうだ。お天気の良い日は、買い物袋を持った主婦や散歩の途中のお年寄りが腰掛け、お店の方に振舞われた日本茶をおいしそうに飲みながら、ゆったりと寛ぐ姿をしばしば目にする。慌ただしく人々が行き交う中、そこにだけは柔らかい空間とゆっくり流れる時間が、そして心からの笑顔があるようにいつも感じる。この街の心休まる風景のひとつであり、私の目指すものだ。
 ある雨の日の午後であった。スタッフが休憩に入り、私は1人で店に立っていた。雨のせいか人通りも少なく、とても静かな午後であった。手の空いた私はいつものように、飾ってある靴を1点1点磨いていた。その時、2度、3度と店の前を通る1人の男性の姿に気が付いた。 「いらっしゃいませ」とお声をおかけしたが、そのお年寄りは笑顔をこちらに投げかけて下さりつつも、ゆっくりと去っていかれた。10分ほど経ったであろうか。私は赤い革張りの椅子を磨いていた。お客様に掛けていただくための椅子だ。あのお茶屋さんの椅子を思い浮かべながら…。ふと、顔を上げると、先ほどのお年寄りがウィンドウを眺めていらっしゃる。声を掛けようと腰を上げると同時に、その方は店内に入ってみえた。杖をつき、わずかに足を引きずっていらした。
 「実は僕、去年脳梗塞をやってね…」そう御自身について話し始めたお客様に椅子をおすすめし、ご要望を伺った。幸い、私のお薦めした靴がお気に召したようで、お買い上げいただくこととなった。すると、こうおっしゃったのだ。「実は、リハビリを兼ねた散歩の途中で、靴を買うつもりなどまったくなかったのだ」と。「たまたま雨が降っていたから建物の中を歩くことにして、偶然お店の前を通った。すると、あなたが無心に靴を磨いている。もう一度見ると、今度は椅子を磨いている。あの椅子に座って、靴を履いてみたいと思ったのだ。病気をしてからは人に任せているが、自分も商売をしている。懸命に働く姿は素晴らしいね。そしてなにより笑顔がいい。つい買ってしまったよ」と。
 当時私は、居心地の良い、魅力的な空間をつくり、心からお客様をおもてなしすることができているのだろうかと思い悩んでいた。自信を失いかけていたのだ。そんな私に一筋の光を与えて下さったように思えてならなかった。後で知ったのだが、あのお客様は赤い椅子のお茶屋さんの御主人であった。

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