バスを乗り継いで

第01回 1997年度 受賞作品
入賞作品
作者名:(氏名割愛)
所属企業:パン販売店勤務

記事(紹介文)


 〈私が売場に加わることで、常連のお客様を失う事だけはしたくない〉。これが、この4月に入社した時の私のひそかな決意でした。けれども、学生の頃からアルバイトで販売の経験があった私には、接客やお金の取り扱いにそれほど不安がなかったせいか、決意の裏では〈笑顔できちんと仕事をしていれば、そんな最悪の事態は起こるはずがない〉という思いもありました。しかし、それから半月も経たないうちに、その「最悪の事態」が目の前で現実になってしまったのです。
 私が働いているパン屋では毎日たくさんの予約が入ります。中でも1本350円のパリジャンは、皮と中身のバランスが絶妙なフランスパンで、洋食屋さんに人気の商品です。とても忙しかったある日の夕方、レジにいた私のところへ、パリジャンを予約している洋食屋さんのご主人が、いつものように受け取りに来られました。「職人気質」という印象の年配の男性で、私が探している間も黙って待っておられました。けれども、お渡しするパリジャンは見当たらず、売場にも1本も残っていないのです。私にとってこれは、入社以来初めてのアクシデントでしたが、そのときの私には、おわびをして代品をお薦めすることしか思いつきませんでした。「パンも売れへんようではパン屋じゃない」。洋食屋さんはそう言って帰ってしまわれました。あの後ろ姿、あの瞬間の空気が頭から離れず、その時の私は〈もう二度と来てはいただけないだろう〉と感じたのでした。
 漠然と考えていたものが実際に起きたことによる驚き以上に、その場で何もできなかった自分に対する無力感が、私を覆っていました。〈この失敗をどう生かす?〉といったん思い始めると私は、仕事後に本屋さんで地図を買い、バスを乗り継いでその洋食屋さんへ向かっていました。それはおわびにいくというよりも〈これからの自分のために、そのお店をこの目で見てみたい〉という気持ちからでした。
 やっとたどりついたのはとても小さなお店で、入口のガラス戸から見える店内のオレンジ色の明かりや、数えるほどではあるものの常連らしきお客さんでいっぱいになった席から、和やかな雰囲気が伝わってきました。中の人に気付かれて、いざ店内に入ると私は、まるで言い訳でもするかのように、ここに来た理由とおわびの気持ちを息もつかずに話していました。話が終わると、お客さんの中の1人のご婦人が、「あなたの気持ちが胸にじーんときたわ。大丈夫、ここのご主人、また買いに行くから」と言って励ましてくださいました。
 その洋食屋さんは、半年後の今もパリジャン一本を買いにお店に来てくださいます。職人とお客様のこだわりの間を結ぶ販売員は、パンに手を加えることはできなくても、気持ちを添えることならできます。接客という結び目を通して、お客様との温かい関係を築いていくことの大切さを教えてくれたできごとでした。

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