ガラス越しの会話

第06回 2002年度 受賞作品
入賞作品
作者名:(氏名割愛)
所属企業:パン販売店勤務

記事(紹介文)

 私は、あの時の少女の笑顔を忘れない。
 今の会社に入社して、8年が経とうとしています。その8年間の中で、私の心に残るとても大切な思い出があります。お店は地下道に面しており、工場から地下道が見えるようになっていました。その頃の私はパンをたくさん作ることに追われ、必死でした。毎日が同じ事の繰り返しで、心の中である迷いがありました。(このままの私で良いのだろうか。本当に自分のため、お客様のために働いているのだろうか…)と自分の目標を見失っていました。
 ある朝、7時に店のシャッターを開け、まだ人通りの少ない地下道を前にし、パンを成形している私の目の前に1人の少女が立ち止まりました。彼女は生地を丸める私の手元をじっと見つめ、にこにこ微笑んでいるのです。それは、毎日続きました。彼女は、厚いガラスの向こうから、必死に何か語りかけていたようです。しかし、声が聞こえないことに気付いたのか、今度は、画用紙に一生懸命自分の名前を書いて教えてくれたのです。その日以来、テストの答案を見せてくれたり、その日あった出来事を教えてくれたりしました。
 クリスマスの日、靴下のプレゼントをもらいました。そして、バレンタインの日には「パン屋のおにいちゃん、がんばってね!」と書いてある手紙が入った、手作りのチョコレートをもらいました。ある日、学校帰りにお店に寄ってくれた時、私はひとつのパンを買ってあげました。彼女は、「お兄ちゃん、このパンおいしいね!」と、とても嬉しそうな顔で、無邪気に食べてくれたのです。自分が作ったパンを、こんなにおいしそうに食べてくれるなんて…と、心から嬉しく思いました。
 この少女がお母さんと一緒にお店に来てくれた時のことです。「この子はおたくのパンがとても好きなんです。朝、学校に行く途中、パン屋さんのお兄さんに会うのを楽しみにしているんですよ」と私に言ってくれたのです。その言葉を聞き、小さい頃の事を思い出しました。近所のパン屋さんに自分もよく見に行っていた時のことを。パンを作っているおじさんを見て、「かっこいいな…」と思っていました。今の自分は、彼女にとって、その時のパン屋のおじさんのようになれたのかなと思いました。
 そんな、小さな彼女との思い出が、今でも心の支えになっています。当時のお店はもう今はありませんが、その地下道を通りかかる度、その頃の事が今でも思い出されます。そんな小さな出来事が、私にとってはとても大きなことでした。
 ガラス越しにパンを作る私を見る楽しそうな彼女の姿。パンを食べた時の嬉しそうな顔。「パン屋のお兄ちゃんがんばってね」と書かれた手紙。お母さんからの嬉しい言葉。この少女と出会っていなければ、私はただパンを作ることだけに追われ、私どものお店のパンを買いに来て下さるお客様とのふれ合いもほとんどなかったかも知れません。そんな彼女に、今「私の作ったパンを食べさせてあげたい」という感謝の気持ちでいっぱいです。
 「あの時の笑顔を、ありがとう」。パンを食べる人みんなが、笑顔で「おいしい」と言ってくれる。それが私の目指すパン職人です。

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