忘れ得ぬS自転車店主の好意

第06回 2002年度 受賞作品
入賞作品
作者名:(氏名割愛)
所属企業:一般

記事(紹介文)

 
 「そうだよね! 早く欲しい気持ち、わかる、わかる! 今すぐ乗って帰っていいですよ」。
 S自転車店の前、あのおばさんの声に気付いて私は一瞬、胸がいっぱいになった。真新しい自転車に腰かけた小学生くらいの少年のそばに立つ母親らしい人に、「お金は後でいいですから」と、かつての私に対してと同じことを言って、おばさんが微笑んでいたのである。
 そう、もう18年も昔のことになる。この町に引っ越して来て間もない頃、家族揃って散歩がてら商店街へ出かけた折、ふらりと立ち寄ったS自転車店で、私はリバティクラブという名の青い自転車を見つけて、とても気に入ってしまった。
 確か4、5万円だったが、代金を持ち合わせておらず、とくに急いで必要ということもなかったので、そのまま帰ろうとすると、「どうぞ! 乗って行ってくださいよ。お代は後でいいんですよ」とおっしゃった。
 顔見知りの客ならいざ知らず、家族5人の全てが初対面、どこに住んでいるともわからない人間に、新品の自転車を、ひとまずタダで持って行ってよいというような商売人に一度も会ったことはない。
 一同、あっけにとられ、恐縮し、お礼だけしてその場は立ち去ったのだが、以来、家族ぐるみで、そのS自転車店の大ファンになったのは言うまでもない。後日買い求めた、そのリバティクラブを始めとして、スポーツ車、マウンテンバイクなど、愚息の成長に伴って何台の自転車を買ってきたことか。
 やがて愚息たちはサイクリングに熱中し、北は北海道から南は九州、果ては海外にまで遠征するようになった。出発前には自転車の点検を兼ねて、おばさんに挨拶に行って、おこずかいをいただいたことも何度かあった。彼らの旅仕度は、いつもいかに荷物を軽くするかで懸命になっているのに、どこへ行っても、おばさんへのおみやげを忘れたことがなかった。
 愚息が結婚して遠く離れて暮らしている今も、「ねェ、S自転車店のおばさん、元気?」と折々電話で聞いてくる。「オレ、あのおばさんに万一のことがあったら、本当にショックだから…」。
 そういう愚息の話をする度に、夫はいつも「あの人は、人を喜ばせることで、自分自身を幸せにしている人だねぇ」と、感慨深げである。人間、身分や職業の何によらず、その人柄こそが、幸せになるポイントなのだと無言のうちに教えてくださったS自転車店のおばさん。お名前も、お年も、知らないけれど、ありがとうございます。いつまでもお元気でと、心から申しあげたい。

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